新選組、坂本龍馬、その他幕末維新関連、その他のスポット。


0: 光縁寺
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1: 八木邸
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2: 壬生寺
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3: 新徳禅寺
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4: 旧前川邸
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5: 新選組記念館
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6: 京都新選組町作りの会
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7: 角屋もてなしの文化美術館
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8: 輪違屋
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9: 島原大門
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10: 誠の湯
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11: 西本願寺太鼓楼
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12: 不動堂村屯所跡
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13: 不動堂明王院
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14: 本光寺
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15: 油小路の変跡
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16: 三条大橋
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17: 池田屋跡
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18: 祇園会所前
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19: 月真院
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20: 霊山歴史館
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21: 幸福堂菓舗
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22: 武信稲荷神社
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23: 天満屋事件跡
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24: 元離宮二条城
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25: 南座
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26: 一力亭
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27: 月真院
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28: 枡屋跡
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29: 金戒光明寺
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30: 戒光寺
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31: 藤森神社
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32: 丹波橋跡
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33: 御香宮神社
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34: 伏見奉行所跡
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35: 魚三楼
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36: 寺田屋
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37: 龍馬館
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38: 銭取橋(現・勧進橋)
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39: 紀州藩邸跡
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40: 千両松激戦地
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41: 淀城址
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42: 若州小浜藩邸跡
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43: 六角獄舎跡
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44: 興正寺
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45: 京都守護職屋敷正門
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46: 京都守護職上屋敷跡
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47: 蛤御門
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48: 建礼門
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49: 宜秋門
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50: 鳥羽離宮跡公園
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51: 城南宮
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52: 茶房おせきもち
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53: 鳥羽伏見乃戦跡地碑
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54: 妙教寺
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55: 井上源三郎首級跡地
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56: 西遊寺
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57: 橋本宿
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58: 大阪天満宮
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59: 蜆橋跡
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60: 平野屋跡
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61: 八軒家船着場跡
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62: 京橋
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63: 大阪城
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64: 萬福寺
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65: 京屋忠兵衛跡
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66: 神戸海軍繰錬所跡碑
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67: 三宮神社
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68: 網屋吉兵衛顕彰碑
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69: 海軍操練所顕彰碑
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70: 加納宗七の銅像
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71: 旧生田川碑
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72: 神戸海援隊の碑
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73: 能福寺
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74: 祇園神社
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75: 姫路藩勤王志士終焉之地碑
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76: 本徳寺
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77: 残念さんの墓
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78: 西宮砲台碑
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79: 西宮砲台
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80: 今津灯台
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81: 今津砲台跡
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82: 舞子砲台跡
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83: 親王寺
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84: 神戸税関
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85: 明治維新開港當時関門趾
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86: 米国領事館跡
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87: ボードワン領事像
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88: 浜光明寺
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89: 兵庫城跡
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90: 伊藤博文銅像台座?
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91: 東郷井
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92: 湊川神社
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93: 泉勇之介商店
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94: 大楠公戦跡
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95: 楠木正成銅像(大楠公像)
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96: 姫路城
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97: 花隈城跡
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Lugares de interés (POIs) del Mapa

0: 光縁寺

新選組隊士やその関係者が葬られ、過去帳には隊士ら27名の記載がある。現存する墓は4基。四番隊組長・松原忠司や櫻井勇之進ら12人の合同墓、大石鍬次郎の弟で大石造酒蔵(みきぞう)の墓、総長・山南敬助ら5名の合同墓、および沖田氏縁者の墓である。「沖田氏縁者」とは沖田総司の内縁の妻とされるがその実態は不明。
本堂には隊士らの位牌が安置されている。

最寄駅:阪急電鉄「阪急大宮」駅から徒歩3分
料金:100円
時間:9~17時
休日:無休


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1: 八木邸

文久3年(1863)2月の上洛後、まもなく江戸に呼び戻されることとなった浪士組。しかし、八木邸を根城にしていた芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら13名は京都に残り、八木邸右門柱に「松平肥後守御預新選組宿」の表札を掲げた。ここに「新選組」が誕生する。
土間や出格子窓など当時の様式を今に伝えている。芹沢が暗殺された母屋の奥座敷では、芹沢がつまずいたとされる文机や、鴨居に残る刀傷も見ることが出来る。
なお、現在の八木家は屯所前で「茶房・鶴壽庵」を経営し、八木邸見学には「鶴壽庵」の屯所餅と抹茶がセットで付く。

最寄駅:阪急電鉄「大宮」駅より徒歩10分
料金:ガイド1000円(抹茶・屯所餅付き)
時間:9~17時
休日:無休


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2: 壬生寺

正暦2年(991)に創建された律宗寺院。新選組の兵法調連場として、境内で武芸や大砲の訓練が行われた。この訓練の大砲による振動で、寺の屋根瓦や戸障子が破損したとも伝えられている。
一方、沖田総司が近所の子どもたちを集めて遊んだり、隊士たちが壬生狂言を観賞したりと、隊士たちとの絆を偲ばせる逸話も多い。広大な境内には、本堂や大念仏堂(狂言堂)、壬生塚などの他、老人ホームや保育園も開設されている。
阿弥陀堂の地階には歴史資料室があり、仏像や壬生狂言の資料の他、新選組についての解説パネルなどが展示されている。
壬生塚は壬生寺境内にある池中の島に築かれている。近藤勇像や遺髪塔、芹沢鴨と平山五郎の墓、河合耆三郎の墓の他、野口健司ら隊士7名の合祀墓がある。合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも葬られている。

最寄駅:阪急電鉄「大宮」駅から徒歩8分
料金:境内無料、壬生塚参拝100円、資料室入室料(大人200円、小中高生100円)
時間:8~17時、壬生塚は8時半~16時半
休日:無休


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3: 新徳禅寺

上洛した浪士組は、本陣が置かれた新徳禅寺本堂で、結成者である清河八郎から我らの真の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷活動であると知らされる。これを聞いた芹沢鴨、近藤勇らは強く反発し、江戸に戻る清河らに背いて京に残った。
彼らは京都守護職松平容保に願い出て、会津藩御預の身分で京の治安維持活動を開始。その後、禁門の変の武功により容保から「新選組」の名を下賜され、評判を高めていく。
まさに新選組誕生のきっかけとなった場所だが、残念ながら内部非公開。

最寄駅:阪急電鉄「大宮」駅から徒歩8分
境内非公開


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4: 旧前川邸

文久3年(1863)から約2年間、八木邸とともに新選組隊士たちの本格的な屯所となったのが前川邸。
池田屋事件の前に古高俊太郎が拷問を受けた土蔵、山南敬助が切腹した八畳間、野口健司が切腹した出格子窓の部屋、隊士たちが付けた刀傷や雨戸に書いた落書きなど当時の面影をそのまま残す。
現在は田野製袋所として個人の所有になっており内部は非公開だが、土日祝のみ開門され、玄関でグッズの販売は行われている。

最寄駅:阪急電鉄「大宮」駅より徒歩8分
内部は非公開
時間:[土日祝のみ]10~17時に玄関で新選組グッズを販売


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5: 新選組記念館

新選組研究家の館長が自身のコレクションを展示。隊士を紹介するパネルや、新選組関連の絶版本、資料がそろう。
ここでしか手に入らないグッズの販売も行われている。

料金:500円
時間:10~16時(要電話確認)
休日:不定休


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6: 京都新選組町作りの会

新選組の衣装やグッズの販売が行われている。また衣装のレンタルも行われている。
大河ドラマ「新選組!」井上源三郎役の小林隆さんが着用した衣装も展示されている。

衣装レンタル:2,500円~(着用時間により異なる)
時間:10~16時(着付け受付は15時まで)
休日:臨時休業有


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7: 角屋もてなしの文化美術館

揚屋建築唯一の遺構。揚屋は現在の料亭、料理屋にあたり、当時の文人たちのサロン的要素も果たした。新選組隊士たちもよく訪れ、玄関口前には彼らがつけたという刀傷が残る。芹沢鴨は角屋の酒宴で泥酔して八木家に戻ったところを殺害された。
建物および所蔵美術品等の展示・公開を行っている。

開館日:毎年3月15日~7月18日、9月15日~12月15日の10~16時
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)
入館料:一般1000円、中高生800円
2階特別公開料金(入館料とは別途に必要)一般800円、中高生600円
※2階の座敷(青貝・扇の間)見学の場合は要事前予約


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8: 輪違屋

元禄元年(1688)創業、300年以上の歴史を誇る。現在も置屋とお茶屋を兼ね、太夫を抱えて営業している。新選組隊士たちも近藤勇は深雪太夫、土方歳三は東雲太夫、伊東甲子太郎は花香太夫などというように、それぞれ贔屓にしていた。
店内に近藤勇の書が表装された屏風が飾られているが非公開。客として訪れる事は可能だが、「いちげんさん」お断りの店である。


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9: 島原大門

島原は京都唯一の幕府公認の花街で、新選組隊士たちもよく通った。
寛永17年(1640)、幕府により六条三筋町から、当時は郊外だったこの地に移された。あまりにも慌しい移転の様子と郭の構成が、3年前の島原の乱、および島原城のようだと同名で呼ばれるようになった。正式名称は西新屋敷。
入口の島原大門は、嘉永7年(1854)に焼失したものを慶応3年(1867)に再建したもの。現在は門の横に柳があるが、かつては「見返りの松」と呼ばれる松が植えられ、遊女と客がここで別れを惜しんだという。


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10: 誠の湯

島原大門すぐの立地なので、新選組の史跡巡りの疲れを癒すには最適。京の街を一望することができる露天風呂でゆったりと心も体もぽかぽかに。老舗旅館が母体なので、軽食から本格的な京料理まで楽しめる食事処もあり、湯上りのリラックスタイムも完璧。食事のみの利用もできる。

時間:8~23時
料金:大人900円、子供(小学生以下)450円
休日:年中無休


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11: 西本願寺太鼓楼

慶応元年(1865)3月10日、新選組は壬生の前川邸・八木邸から屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移した。隊士が増えて壬生が手狭になったことや防備の薄さに加え、勤王派に同情的な西本願寺の動きを牽制する目的もあった。
新選組はこの地で約2年間過ごすが、境内で大砲や小銃の訓練をしたり、豚を飼って鍋にしたりとやりたい放題で、西本願寺は相当迷惑を被ったようだ。
太鼓楼は西本願寺に現存するが、北集会所は明治6年(1873)に解体され、一部が姫路市の亀山本徳寺に移築されている。

時間:5時30分~17時(3・4・9・10月は~17時30分、5~8月は~18時)


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12: 不動堂村屯所跡

慶応3年(1867)6月15日、防備が弱いことを理由に新選組は西本願寺から不動堂村に屯所を移転。新選組の振る舞いに困り果てていた西本願寺は大歓迎で移転費用などを全面的に負担した。
新しい屯所は敷地約1万平方メートル、武芸道場に馬屋、物見櫓、一度に30人が入浴できる風呂まで備えていたという。
しかし同年12月16日、伏見奉行所の警備のためわずか半年で新選組はこの屯所を後にする。大政奉還から王政復古の大号令へ、新選組の内部でも油小路の変、天満屋事件など、大きな事件が相次ぎ時代が大きく動きはじめていた。
不動堂村屯所の正確な場所は特定されておらず、そのため「まぼろしの屯所」とも呼ばれているが、現在のリーガロイヤルホテル付近とされている。ホテルの一角に屯所跡の碑が建てられている。


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13: 不動堂明王院

新選組屯所があった不動堂村の名前の由来となった寺。新選組をイメージした提灯が吊るされている。


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14: 本光寺

新選組の襲撃を受けた伊東甲子太郎が最後の力を振り絞ってたどりついたのが本光寺。
門前には「伊東甲子太郎他数名殉難の地」の石碑がある。寺内は拝観できないが、門内に「南無妙法蓮華経」というお題目を刻んだ石碑がある。伊東は、当時門前にあったというこの碑にもたれかかり「奸賊ばら!」と叫んで、碑を抱くように絶命したといわれる。
新選組は高台寺党をおびき寄せるため、伊東の遺体を100m先の油小路七条の辻まで運び、油小路の変が起こった。

寺内は非公開、説明書は50円


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15: 油小路の変跡

新選組がここに伊東甲子太郎の遺体を運び、高台寺党を呼び寄せたとされている。
碑などは特に建てられていない。


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16: 三条大橋

三条大橋西側には御高札場があり、幕府が定めた法度などが掲げられており、それを引き抜く三条制札事件が起きた。
橋西側ふたつ目の南北擬宝珠には、池田屋事件の際についたとされる刀傷がある。


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17: 池田屋跡

池田屋事件の跡地。
失地回復を狙う尊王攘夷派の京都焼討計画を察知した新選組は、密議中の池田屋を掃討。宮部鼎蔵らを倒し、20余名の志士を捕縛した。

居酒屋、海鮮茶屋池田屋はなの舞の店先に石碑が佇んでいる。


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18: 祇園会所前


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19: 月真院

新選組を離反した伊東甲子太郎率いる御陵衛士の拠点。油小路の変で解散するまでの約半年をこの寺で過ごす。

非公開寺院。
山門前には屯所跡を示す石碑が立つ。


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20: 霊山歴史館

幕末維新史に登場する人物ゆかりの品々を5000点以上収蔵し、その中から常時100点程度を展示する。幕府側・倒幕派双方の資料を収集、調査する博物館は日本でも数少ない。常設展示のほか、期間限定で特別展示も開催。

料金:500円(特別展期間中は700円)
時間:展示内容により異なる
休日:月曜(祝日の場合は翌日)


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21: 幸福堂菓舗

明治元年より壬生寺のすぐそばで営業を続ける老舗菓子舗。厳選された北海道産、丹波産小豆を使用した看板商品の金つば(150円)は地元だけではなく、はるばる遠方から求めに来るファンも多い。誠饅頭や新選組グッズの販売も行われている。

時間:8~18時
休日:水曜(1日、祭日、節分は営業)


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22: 武信稲荷神社

命を追われる龍馬の身を案じ過ごしていたおりょうは、二人で何度も訪れた武信稲荷の榎をふと思い出し訪れた。するとそこには龍馬独特の字で「龍」の字が彫ってあったという。
自分は今も生きている。そして京都にいる。そういう龍馬からの伝言であった。
龍馬が京都にいることを知ったおりょうは二人の共通の友人を訪ね、その後に二人は再び出会えたという。


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23: 天満屋事件跡

紀州藩士・三浦安が、坂本龍馬暗殺の疑いをかけられ海援隊に襲われた旅籠・天満屋の跡。
現在は「中井正五郎殉難之地」の碑が立つのみ。
三浦を警護していた新選組隊士ふたりが戦死。
襲撃側の中井正五郎も討ち死にした。


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24: 元離宮二条城

徳川家康が慶長8年(1603)に征夷大将軍拝賀の礼を行った城。
代々将軍家が上洛する際に居城として使用され、徳川慶喜による大政奉還が発表された。
二の丸御殿や狩野派障壁画などがあり、世界遺産に登録されている。

拝観:600円
時間:8時45分~17時(受付は~16時、二の丸本殿は9~16時)
休日:7・8・12・1月の火曜(祝日の場合は翌日)


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29: 金戒光明寺


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30: 戒光寺

鎌倉時代に創建、皇室の菩提所である泉涌寺の塔頭で、その縁から御陵衛士の墓がある。
墓所には伊東甲子太郎ほか、油小路の変で死亡した4名の墓がある。当初は壬生寺に葬られたが、明治になりこの寺に改葬された。
墓参は7日前にインターネットまたは郵送による申し込みが必要。

料金:拝観500円(要事前申し込み)
時間:9~16時


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31: 藤森神社

神功皇后摂政3年(203)創建とされる古刹。
境内の「いちのきさん」と親しまれるイチイの木(旗塚)には、腰痛治癒の効用があるとされ、腰痛持ちだった近藤が足繁く通った。


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32: 丹波橋跡

近藤が御陵衛士に襲撃された地。王政復古の大号令後、二条城での会議から伏見奉行所へ帰る道中、近藤はこの丹波橋付近で伊東甲子太郎の門下に襲撃され、右肩に銃弾を受けたとされる。その後近藤は大阪城で療養していたため、鳥羽・伏見の戦いに参戦できなかった。

現在は歩道橋が架かっている。


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33: 御香宮神社

貞観4年(862)に境内から香りの良い水が湧き出たため清和天皇より「御香宮」の名を賜った。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の本営が置かれた。
薩摩藩は神社周辺の高台に砲兵を布陣し、坂下の伏見奉行所を砲撃した。境内には、当時の戦跡を表す石碑が建っている。

時間:9~16時
料金:石庭拝観200円
境内参拝自由(石庭拝観は不定休)


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34: 伏見奉行所跡

鳥羽伏見の戦いで会津藩などの旧幕府軍が布陣。新選組も配備された。
大通りを隔てた御香宮神社からの高所至近砲撃を受け、炎上してしまう。そのため、奉行所は現存しておらず、桃陵団地の入口付近に石碑のみ残る。


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35: 魚三楼

明和元年(1764)創業の料亭。
伏見の銘水・伏水を使う出汁の料理店として知られ、当時から名藩の大名屋敷の料理方を、鳥羽伏見の戦いでは官軍の台所番を勤めた。
表の格子戸には鳥羽・伏見の戦いで受けた弾痕のあとが残る。
新選組は魚三楼前に布陣し、白刃で銃装備の薩摩軍に斬り込んだとも伝わる。

営業時間:11時30分~22時(L.O.19時)
定休日:火曜、年末年始


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36: 寺田屋

尊王攘夷派がよく利用していた船宿。
ここでは、薩摩藩・島津久光が同藩尊攘派を粛正した事件と、坂本龍馬が襲撃された事件の二度の寺田屋事件が起きた。龍馬襲撃事件には新撰組が関わったという風聞も流れた。

時間:10~16時(入館は15時40分まで)
料金:400円
休日:1月1日~3日、月曜不定休有り


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37: 龍馬館

10~17時


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38: 銭取橋(現・勧進橋)

脱退した副長助勤の武田観柳斎が斬殺された。


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39: 紀州藩邸跡

月桂冠・昭和蔵付近


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40: 千両松激戦地

鳥羽伏見の戦いで敗走した旧幕府軍は淀方面へ退却、千両松にて軍を展開して壮絶な白兵戦を繰り広げた。
その結果、六番組隊長・井上源三郎らがこの地で戦死し、大きな被害を出した。


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41: 淀城址

幕末期、淀城は老中・稲葉正邦の居城であり、佐幕派であった。そのため伏見より撤退していた旧幕府軍は淀城に入城し、体勢を整えようとしたが、淀城はこれを拒否。旧幕府軍はさらなる撤退を余儀なくされた。


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42: 若州小浜藩邸跡

入洛した将軍・徳川慶喜が起居した屋敷。
広さ約2万坪を有し、慶喜は大政奉還間近までここから二条城に通った。
現在は石灯籠のみが当時の面影を伝える。


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43: 六角獄舎跡

京都町奉行所付属の牢獄跡地。
禁門の変で市内が混乱を極める中、被疑者として収容されていた古高俊太郎ら尊攘派志士らが罪状未決のまま斬殺された。


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44: 興正寺

紀州藩家老が宿舎の興正寺で海援隊に襲われるも、土方歳三ら新選組の警護により難を逃れたという逸話が残る。

時間:6~17時


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45: 京都守護職屋敷正門

京都の治安悪化対策として設置されたのが京都守護職。
会津藩が警備の任に就き、明治に入るまで6年間機能した。
現在、門は京都国際ホテルの裏手に移築されている。


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46: 京都守護職上屋敷跡

京都守護職を務めた会津藩主・松平容保の屋敷となった場所で、現在は京都府庁が立つ。

時間:平日7時30分~18時(正門開門)


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47: 蛤御門

禁門の変の激戦地。
現存する門の梁には当時の弾跡が残る。


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48: 建礼門

孝明天皇の住居であり、長州藩を京都から追い出すために画策された“八・一八の政変”の舞台のひとつとなった。
壬生浪士組は御所南側の建礼門の付近にある御花畑を警護し、この功績により新選組の名前を拝受した。


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49: 宜秋門

宮家や藤原摂関家などの公卿が参内する時に用いたことから、“公家御門”とも呼ばれる御所の門。
禁門の変では、京都所司代が防衛にあたっていた。

御所内の参観には事前申し込みが必要。


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50: 鳥羽離宮跡公園

鳥羽方面の合戦の戦端地。小枝橋付近で小競り合いが起こり、薩摩軍がアームストロング砲を発射したのを合図に、鳥羽伏見の戦いの幕が空けた。
公園内の築山から薩摩軍は砲撃したという。


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51: 城南宮

桓武天皇の平安京遷都以来、京都の守護とされた神社。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩が陣地とし、戦後は薩摩藩が御礼参りに訪れた。


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52: 茶房おせきもち

江戸時代創業のお茶処。
近藤もここの餅が大好物だったらしく、度々立ち寄ったという。さらには、この店の娘を口説こうとしたという言い伝えも。

時間:8時30分~18時
休日:月曜、火曜(夏期、冬期、臨時休業有り)


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53: 鳥羽伏見乃戦跡地碑

激戦となった伏見で命を落とした兵のための慰霊碑。当時、この辺りは湿地であったとされるが、戦後も地域住民が死者を弔い続けた。


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54: 妙教寺

鳥羽伏見の戦いで激戦地となり、戦渦を受けた寺。本堂にも無数の銃弾が飛び込んだという。
千両松の慰霊碑建立の際、妙教寺の住職が供養を行った。
榎本武揚が文字をしたためた慰霊碑がある。

時間:9~16時


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55: 井上源三郎首級跡地

欣浄寺跡。ここに井上源三郎の首が埋められたとされる。
現在はうどん屋が建っている。


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56: 西遊寺

行基にゆかりを持つと伝わる古寺。詳しい経緯は不明だが、鳥羽伏見の戦いで用いられた弾薬庫が今も残る。残念ながら一般公開はされていない。
内部非公開。


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57: 橋本宿

千両松で敗れた新選組らは、ここに陣を敷いて新政府軍迎撃を試みる。しかし、淀川対岸にいた津藩が新政府側に寝返り、橋本宿などを砲撃。側面を疲れた旧幕府軍は撤退を余儀なくされた。
今は宿場町の面影を残す民家が並ぶ。


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58: 大阪天満宮

王政復古の大号令を受け、旧幕府軍は大坂に集結。新選組も伏見奉行所に駐屯するまでの間、大阪天満宮を本拠としていた。


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59: 蜆橋跡

壬生浪士組時代、この蜆橋で隊士と道を譲らぬ力士との小競り合いが発生。その後、酒宴の場に力士たちが報復に訪れ、死者を出す乱闘事件にまで発展した。


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60: 平野屋跡

両替商だった平野屋跡地。
新選組は結成当初、平野屋から活動資金として200両を借用し、ダンダラ羽織をあつらえたという。
小学校の角に「天五に平五 十兵衛横町」と刻まれた石碑が立つ。


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61: 八軒家船着場跡

鳥羽・伏見の戦いで敗れ、ボロボロになった新選組がたどり着いた船着場跡。この船着場にあった船宿の京屋は、大坂いおける新選組の活動拠点として、壬生浪士組時代から大坂撤退まで利用されたという。


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62: 京橋

公武合体を進めた14代将軍・徳川家茂が慶応元年(1865)に上洛した際、新選組が警備した場所。京街道の起点であり、過激派の浪士たちが京へ向かわないよう、新選組は京橋北詰で目を光らせた。


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63: 大阪城

天下の堅城として知られ、鳥羽・伏見の戦いの際には総大将・慶喜が控えていた。敗走し帰還した土方らは、療養し参戦できなかった近藤・沖田と二の丸で再会を果たした。その後開かれた幕府会議で、近藤は慶喜に新政府軍迎撃を直談判したと伝わる。しかし、大坂城には戦うに充分な兵力を有していたにも関わらず、慶喜は松平容保ら一部の幕閣を引き連れ、船で江戸へと退去してしまった。

料金:一般600円
時間:9~17時(入場は16時半まで)
休日:年末年始


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64: 萬福寺

新選組の大坂駐屯地。
慶応元年、家茂が長州征伐の指揮を執るために大坂城入りした際に新選組が詰めた屯所。ここに駐屯していた隊士が、力士との乱闘事件を起こした。
新選組は納屋を牢に改造し、不審な者を拷問したという。


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65: 京屋忠兵衛跡


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66: 神戸海軍繰錬所跡碑


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67: 三宮神社

神戸事件跡地。


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68: 網屋吉兵衛顕彰碑


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69: 海軍操練所顕彰碑

神戸海軍操練所石碑複製と陸奥宗光顕彰碑


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70: 加納宗七の銅像

加納宗七の銅像、ボウリング発祥の地碑、日本近代洋服発祥の地碑がある。


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71: 旧生田川碑


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72: 神戸海援隊の碑


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73: 能福寺

滝善三郎正信の碑、月輪影殿、北風正造顕彰碑、ジョセフヒコの英文碑がある。


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74: 祇園神社

生島四郎奉納の石灯籠


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75: 姫路藩勤王志士終焉之地碑


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76: 本徳寺

姫路藩勤王十二士の墓


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77: 残念さんの墓

この墓は、長州藩士山本文之助の墓です。文之助は元治元年(1864)の蛤御門の変のとき、京都から帰国の途中大物で捕らえられ、自決しました。死に際に「残念、残念」と叫んだと言うので、幕府に反感を持つ民衆の同情を受け、大坂からも墓参りの人が絶えず残念さんと呼ばれるようになりました。


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78: 西宮砲台碑


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79: 西宮砲台


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80: 今津灯台


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81: 今津砲台跡


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82: 舞子砲台跡

舞子公園内。
明治天皇歌碑もある。


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83: 親王寺

慶応三年十一月 長州軍布陣


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84: 神戸税関

慶応三年の兵庫開港により設置された神戸運上所跡
神戸税関発祥の地
神戸外国人居留地跡


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85: 明治維新開港當時関門趾


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86: 米国領事館跡


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87: ボードワン領事像


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88: 浜光明寺

明治天皇明石行在所


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89: 兵庫城跡


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90: 伊藤博文銅像台座?

戦争によって供出され台座のみが残っています。


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92: 湊川神社

楠木正成の墓があり、松陰をはじめ多くの志士が訪れている。


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93: 泉勇之介商店

創業明治15年
当時の面影を今に伝える。


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94: 大楠公戦跡


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95: 楠木正成銅像(大楠公像)


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97: 花隈城跡


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