Lugares de interés (POIs) del Mapa
31: 鎌倉市明石
【地点】扶桑皇国 神奈川県鎌倉市明石
【史実…現在】日本 神奈川県鎌倉市
【史実…WW2】現在と同じ
宮藤軍曹の出身地。
なお、鎌倉市に「明石」という地名は存在しないと思われ、恐らく架空の地名だろう。
人口は17万3000人(2009/02.01現在)。
Más sobre 鎌倉市明石32: ヴァイザッハ
【地点】カールスラント南部ヴァイザッハ
【史実…現在】ドイツ バーテン=ヴュルテンベルク州
【史実…WW2時】現在と同じ?
ハルトマン中尉の出身地。
バーテン=ヴュルテンベルク州州都のシュツットガルトに程近い場所に位置する。
Más sobre ヴァイザッハ33: カイザーベルク
【地点】カールスラント東部カイザーベルク
【史実…現在】ロシア連邦カリーニングラード州
【史実…WW2時】ドイツ東プロイセン ケーニヒスブルク
バルクホルン大尉の出身地。
WW2時はドイツ東プロイセンの中心地であり、WW1の敗戦によって生まれたドイツの飛び地でもあった。東西プロイセンの分裂によって生まれたドイツ人の怒りは、ナチスにとって、ポーランドへの敵愾心を煽る為の格好の材料となった。
この地域がソ連に割譲されて「カリーニングラード」と改名された後は、ソ連西部の重要軍事拠点とされたため州全体で外国人の立ち入りが制限されるなど、閉鎖都市となっていた。
現在の人口はおよそ95万人。琥珀の産出地としても有名。
「カイザー(カイゼル、ケイゼル))」はドイツ語での皇帝号、君主号。
ドイツ語の「カイザー」やスラヴ語で君主の称号である、「ツァーリ」は、共和制ローマ期の人物である「ガイウス・ユリウス・カエサル」の「カエサル」を由来にしていると言われている。
Más sobre カイザーベルク34: ポズナニア
【地点】カールスラント東部ポズナニア
【史実…現在】ポーランド ヴィエルコポルスカ県ポズナン
【史実…WW2時】現在と同様?
ミーナ中佐の出身地。
ポーランドの中では最も古い都市であるが、WW2で市街地の大半(旧市街の90%以上、市街地全体の55%以上)が戦闘により破壊された。しかし現在ではポズナン市民の手により、殆どが昔と同じ姿で復元されている。人口は58万人(2002年現在)。
「ポズナニア」はこの「ポズナン」を由来にしたものと思われる。
史実では、ドイツの対ポーランド戦の際、ここを拠点としたポーランドの「ポズナン軍(ポズナニ軍)」との戦闘があった。
Más sobre ポズナニア35: パ・ド・カレー
【地点】ガリア北部パ・ド・カレー
【史実…現在】フランス パ・ド・カレー県カレー
【史実…WW2時】現在と同じ?
ペリーヌ中尉の出身地。
人口は7万3000人。僅か30km近くしか離れていないイギリスとの貿易の際のフェリー港として栄えているが、ダンケルクにその役割を奪われつつある。
カレーとイギリスのフォークストンを結ぶユーロトンエルは世界最長。
WW1、WW2では共に町を破壊された。
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百年戦争中の1346年、二重の城壁と濠を有し非常に防備の固かったこの都市を包囲したエドワード王率いるイングランド軍によって、翌年にカレーは陥落した。この開城のための降伏交渉の際に、1年近くも釘付けにされて怒りをもっていたエドワード王は、町の代表6人に出頭を命じ、その6人の死を持って町の人間を救うと約束した。これを聞いたカレーでは、指導者のうちの一人であるサン・ピエールがまず名乗りをあげ、すぐに他の5人もそれに続いた。
6人は、エドワード王が要求したとおり、裸に近い格好で首に絞首のための縄を巻き、城門の鍵を持って歩き出てきた。
『まさにこの、敗北、英雄的自己犠牲、死に直面した恐怖の交錯する瞬間(wikipediaより)』を目の当たりにした人々の話を元に、彫刻家のオーギュスト・ロダンは、彫刻「カレーの市民」を製作したといわれている。
この6人の姿を見たエドワード王の王妃による嘆願で、彼らは助命された。その彼らの必死の姿が王妃の心を打ったのだろう。
Más sobre パ・ド・カレー36: ロンドン
【地点】ブリタニア連邦ロンドン
【史実…現在】イギリス ロンドン
【史実…WW2時】現在と同じ
ビショップ軍曹の出身地。
WW2では「バトル・オブ・ブリテン」やV1、V2による大きな被害を受けた。
当初ドイツ軍は英国空軍(The Royal Air Force 略してRAF)の撲滅を目的とした空襲を行っていて、英国の空軍基地や飛行場、航空機産業などを目標としていた。これによりRAFの戦力は大きく消耗し、英国上空の制空権は危機的な状況だった。しかし1940年8月24日、ドイツ軍爆撃機が航法ミスにより、誤ってロンドン市街地へ爆撃をしてしまった。この報復として、英国首相チャーチルはベルリンの爆撃を命令。大した被害は無かったものの、これを激怒したヒトラーはロンドン空襲を命じ、9月7日に1000機を越える編隊がロンドンに飛来した。RAFは22個飛行隊を全て出撃させてこれを迎撃。大きな損害を受けたドイツ軍は、以降の昼間爆撃を中止したのだった。
この「ザ・ブリッツ」と呼ばれる一連の爆撃では数万人が死傷したと言われ、ロンドン塔や大英博物館、バッキンガム宮殿を始めとする諸宮殿と言った名高い建築物が大きな被害を受けた。
現在の人口は735万5000人。この都市の住民を、現地では「ロンドンっ子(Londoner)」などと呼ぶらしい。
Más sobre ロンドン37: ローマ
【地点】ロマーニャ公国ローマ
【現在…史実】イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
【現在…WW2時】現在と同じ?
ルッキーニ少尉の出身地。
人口は270万6000人。
Más sobre ローマ38: モスクワ
【地点】オラーシャ帝国モスクワ
【史実…現在】ロシア連邦 モスクワ連邦市
【史実…WW2時】ソビエト連邦 モスクワ
サーニャ中尉の出身地。
言わずと知れたWW2の激戦地である。1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦の初期段階で大戦果を収め、モスクワ西方360kmにあるスモレンスクを落としたドイツ軍はモスクワへ進撃しようとしたが、ヒトラーの言葉により、中央から南方へ戦力を引き抜いて、ウクライナ方面への進撃を開始した。この時ヒトラーが軍を真っ直ぐモスクワへ向かわせていれば、防衛体制の全く整っていないモスクワはいとも簡単に落ちたといわれているが、一方、ロシアの工場群はウラル山脈以東への疎開を終えており、例えモスクワが陥落していたとしても大勢に影響は無かっただろう、と言った意見もある。ソースは失念。この当時に疎開なんて終わってたか?
ドイツ軍は10月に改めてモスクワへの進撃を行ったが、防衛体制を整えたロシア軍に苦戦を重ね、一部の部隊はモスクワから30kmの地点にまで迫るも、撤退を余儀なくされたのだった。
人口は1047万人(2008年現在)。ロシア連邦の首都である。
Más sobre モスクワ39: ウィーン
【地点】オストマルク ウィーン
【史実…現在】オーストリア共和国 ウィーン
【史実…WW2時】1938年~ドイツ領 ウィーン
サーニャ中尉が育った都市。
欧州最大の芸術都市であり、「音楽の都」などと呼ばれる。
劇中では、地中海方面から進撃してきたネウロイを、オストマルク軍とそれを支援しに来た外国軍が正面から迎え撃ったが、前線が膠着したところに、迂回戦術をとったネウロイによって後方のウィーンが陥落。ネウロイによって破壊されたと見られている。
リーネやミーナが、ネウロイ占領以前に訪れた事がある模様?
人口は167万7000人(2008年現在)。オーストリアの首都である。
Más sobre ウィーン40: モン・サン・ミシェル
フランス西海岸の小島の上に築かれた修道院。1979年にはこの島と付近の湾が世界遺産に登録され、1994年にはラムサール条約登録地となった。
劇中で第501統合戦闘航空団が基地としているウィッチーズ基地は、この島をモデルにしている(イギリスのCornwallにある St Michael's Mount
(セント・マイケルズ・マウント)をモデルにしているという説もあり)。基地はドーバー海峡にあり、ロンドン防空の要であるようだ。
無論、実際のこの島には滑走路など無いが、「引き潮の時にのみ陸続きになる」とは本当の事である。ただし1877年に、満ち潮の時にでも海没しない陸続きの道路が作られ、現在では容易に観光客が島と大陸を行き来できるようになっている。ただ、この道路のために湾の潮の流れがせき止められ、海底には2mもの砂が堆積してしまっている。これを受けて、政府はこの島の以前の姿を取り戻す為に、現在の道路を取り壊して、新たな橋を建設する事を計画している。
Más sobre モン・サン・ミシェル41: マンネルハイム線
フィンランドのカレリア地峡に建設された要塞。と言っても、構造物の多くは自然の地形や倒木を利用したものであり、建設に使用したコンクリートは、フランスの「マジノ線」やドイツの「ジークフリート線」と比べ物にならないぐらい少ない。
それでも、冬戦争の際にはフィンランド軍はこの粗末な防衛線上で必死の抵抗を続け、冬戦争の3ヶ月間の間の2ヶ月近くに渡って、強大なソ連軍を足止めし続けたのである。
名前の由来は、フィンランド軍の名将「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」より。
Más sobre マンネルハイム線42: ハルファヤ峠
島田フミカネ・鈴木貴昭・野上武志し3人による同人誌「アフリカの魔女」の舞台。エジプト方面からやってきたネウロイを、アフリカの魔女と呼ばれるウィッチ、「ハンナ・ユスティーナ・マルセイユ」らの活躍で撃退した。
史実では、ドイツ軍の包囲下にあったリビアのトブルクの解囲を計画したイギリス軍を、ロンメル率いるドイツ軍部隊が、ここ、ハルファヤ峠で迎撃してこれを撃退した。
マチルダⅡ歩兵戦車190両を先頭に進んでくるイギリス軍を前にしてドイツ軍は危機に陥ったが、ドイツの守備隊が保有していた8.8cm高射砲を用いて、イギリス軍戦車に打撃を与える事に成功した。ドイツ軍の戦車の損害12両に対し、イギリス軍のそれは91両。この高射砲が対戦車戦闘に有効なことが改めて示されたのであった。
Más sobre ハルファヤ峠45: リバウ
【地点】オラーシャ帝国リバウ
【史実…現在】ロシア連邦 リエパーヤ
【史実…WW2時】ソビエト連邦 リエパーヤ
日露戦争ではバルチック艦隊がこの港から日本へ向けて出発した。
リーバウ Livawe(Libau)とはドイツ名。
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